たむろ荘とは現時点で何であるかについて

 

たむろ荘を買い取ってから4月13日でちょうど2年になります。そして住み始めておおよそ1年でもある。たむろ荘とは何であるかというのは、個々人で解釈が異なると思うし、運営者で共同代表でもある秋山と自分の間にも多少の違いがあると思う。居住者の自分と、運営者の自分ではまた考えも微妙に違うし、今いる居住者との間にも微妙に解釈の違いがあるのかもしれない。

 

ただここらで(本当はもっと早く固めていれば今までの苦しみはなかったわけだけど)たむろ荘は何であるのかどういう性格の場所なのか、少なくとも「何ではないのか」について自分の考えをまとめておく必要があるなと思う。理由として、住み始めてここ一年で来訪・滞在した人の中には、たむろ荘が避けたい振る舞いを求めてたむろ荘にやってくる人というのが少なからず存在していて、そういった誤解に対する対応をめぐって運営者・居住者がどんどん疲弊していく現実があるからだ。

 

この記事はたむろ荘を1年運営して、来る人みんなと切々と会話して得た知見をもとに「たむろ荘とは現時点で何であるのか、たむろ荘の理念/綱領の軸になりうるのは何か」ということについてのたむろ荘の一運営者としての見解です。たむろ荘としての総意ではなく、また現時点では何かという考えであって、今後どうなっていくかもまた別問題と考えてほしいです。

 

 

 

こういう「たむろ荘とは何であるか」という記事を書く前提として、自分はたむろ荘を出来れば長く続けていきたいと思うし、こういう場を維持することだけにでも価値はあると考えているのが理由としてある。だから自分を含めた運営者・居住者がある程度たむろ荘の理念を共有していた方がいいなと思う。これはたぶん理念の下書きみたいなもので、下書きを各々運営者が持ち寄る形で今後理念が出来ると思う。

けどこの記事はもしかしたら理念の下書きというよりむしろ倫理綱領みたいな性格が強いかもしれない。そしてかなり一般論に寄る形でしか表記できないかもしれない。抽象的で具体性に欠けるかもしれない。

 

そうなってしまう理由として、今のたむろ荘はもともとの目的であった「一人暮らしからの脱却と、集団での利便的生活」というのをわりと主要な理念に置いている(ように感じる)ということがある。実際かなり生活路線*1を強めていると思う。そういう現状の中で極端に言えば、「同居人が突然体調不良を訴えて苦しんでいます、あなたはどうしますか?」「同居人(あるいは来客)が、差別的で横暴な振る舞いを来客(あるいは同居人)に対してしています、あなたはどうしますか?」といった問いに、同じ答えを持つ(あるいは持ちうる)人じゃなければ暮らしていけないという結論に自分自身は達している。

 「最大限の努力をして助けます」「差別的で横暴な振る舞いは理由はどうあれ見過ごせません」と考える人としか暮らせないというのが自分の暮らしの中での実感としてある。

 

生活路線を強めればおのずと排除しなければならないタイプの人間がいるというのはここ1年で私が得た知見の一つでもある。他人のことをどうでもいいと思っては暮らせないし、無関心ではいられない。で、それは逆に共同生活をしている以上私のことをどうでもいいとは思ってほしくないし、無関心でいられたくないということでもある。思いやりたいし、思いやられたいと感じる。共同生活というのはそういうモノだとすら思う。

 

 

「排除するのはコミュニケーション淘汰なんじゃないのか」「相手にコミットしていないんじゃないのか」という意見もあると思う。たしかに活動するうえでたむろ荘は自分の名義だけど、自分だけのものではない。いろんな人の支援があって動き出したものだから、正確には誰のものでもない。排除するとか強制的に退去を要求する資格なんてものは自分には全くないのかもしれない。けど、それでも自分は誰に対しても最初は誠実に対応しようと心がけてきたし、コミュニケーションに落ち度はあったかもしれないけど、その時その時自分のあるマックスの体力と気力でできうる限りの対応をしてきた。代表としての自分と居住者としての自分のギャップに苦しい思いもあった。「自分が住みづらいからって、相手を安易に避けようとしていないか?権力を持ったつもりになって思いあがっているのではないか?独裁的で管理的なところから逃げてしまえとおもってたむろ荘を作ったのに、ここで自分は独裁を敷いているんじゃないのか?」と何度も思った。そういうことを誰とも共有できない日々が続いて精神的に参ったりしてた

 

それでもやはり、自分しか気になっていなかったら自分がやるしかないし、居住者としてのしんどい自分を運営者の自分が無視することは、それこそ生活路線からどんどん外れていくことになる。吐きそうになったり、心拍数あがったり、手が震えたり、声が震えてみっともなかったりしてもコミュニケーションを諦めないことが必要なのではないかと思う。他人と一緒に生活を良くしようとするのは並大抵のことではなくて、ものすごく手間がかかって、信じられないほどスリリングだ。でも自分の生活は自分で防衛しなければならない。自分が不快だ、不当だと思ったことは自分で伝えなければならない。伝えられたら真摯に受け止めて改善を試みなければならない。これは自分がたむろ荘で良く暮らすために最も心掛けていることだし、これは居住者も運営者も、もっというなら来訪者も一緒になって目指してほしい目標でもあると思う。「自分の選択と責任で生きていく」これは初期から変わらない理念だと思っている。たむろ荘の理念の軸たり得るのではないかと思う。

 

 

とにかく他人を安易に消費しないこと。女としての振る舞いのみを強制されるのはもうこりごりだし、親しい人間が性別だけを重要視されて消費されていることに対してもバチバチの嫌悪感がある。もう誰にも勝手に消費されたくないし、誰のことも消費したくない。たむろ荘をただの安宿として使ってもらっても別に構わない。けれども安く女性と話せるからといった理由だけで来る人は歓迎できない。たむろ荘は来訪した人に対してなるべく誠実に対応したいと思っているし、こちらに興味を持ってくれたことにたいしての興味もある。けどそれは来訪者である人も、居住者・運営者に対してそうであってほしい。

 

たむろ荘は自分たちで作った自分たちの場所だから、人任せにせず、自分たちで良く暮らし活動するために何が必要か考えるべきだと思っている。それは運営者・居住者・来訪者、誰でも同じであってほしい。運営者だけが割を食ったり、居住者だけが割を食ったり、来訪者だけが割を食ったりすることのないように個人個人がこれから出来てくるであろう理念にのっとった行動をしていけたらいいと思う。

たむろ荘で楽天的に暮らしていく様子を発信していきたいと思っているし、すごく平たく言うとそれが革命なのではないかと私個人は考えているけど、楽天的に暮らそうとするのには思いやりと自主性と知恵が必要である。とにかく人任せにしない。人任せにするということは、他人にどんどん人生を決められることと同じだぞ。それは私たちがもうこんなものはうんざりだと言って放棄した就職活動や、メイク講座と何ら変わらない。能動的か受動的かの違いしかない。人任せにするということは、勝手に自分たちの場所に政治家が来て勝手に政治始めることを容認するようなものだ。人がなにか言うまで自分は黙っているということは、無関心を露呈し続けているのと同じだぞ。そんなのは思いやりでも何でもない。一人じゃやっていけないからみんなで住んでいるたむろ荘でそんなことは絶対にごめんだと私は思う。

 

 

 

 

 

たむろ荘は誰でも・何にでも使うことを許容は出来ないし、誰でも住めるわけではない。たむろ荘が初期に掲げていた「誰のものでもないし誰のものでもある何にでも使える家」という理念にはガタが来ていると思う。今言えるのは、誰のものでもないし誰のものでもあるというのは同時には存在しえないということで、住まれたら困る人、使われたら困る用途*2が明確にある。

 

たむろ荘がもし賃貸だったら、もっと性格は違っていたと思う。でもたむろ荘はもう持ち家で、よほどのことがない限り無くなることはない。どんどん人に住んでもらってバンバン家賃貰わないと運営できなくなるというタイプのシェアハウスではない。それがたむろ荘の「先に住んでいた人のことを優先する」という思想を強めていると思うし、その路線でやっていける理由でもあると思う。

 

 たむろ荘は今後ゲストハウスかもしれないし、オープンスペースかもしれない。貸しスペースかもしれない。カフェかもしれない、インフォショップかもしれない、古着屋かもしれない、古本屋かもしれない。何になっていくかはまだ全く分からない。

けどここは女と話せるだけの店ではないし、誰か一人のための駆け込み寺ではない。ただ飯にありつける場所でもない、カウンセリング会場でもない、充電スペースでもない。たむろ荘が善意で行った事だけが独り歩きして、さも全員に対して善意MAXでふるまっているかのように思っている人もいるかもしれない。けどたむろ荘はボランティアでやっているわけではない。血の通った人間が運営しているわけなので、疲弊もする。腹が立ったりもする。

 

 

 

たむろ荘とは現時点では(ただの)シェアハウスであり、今後ともおそらく住みやすいシェアハウスを目指していくのではないかと予想している。そして住みやすいというのは、第一に設備のことを指すのではなく、皆が同じ目的のために自らが自治に参加することで自分たちの場所を維持するということを指すのではないかと思う。

今後はもっとたむろ荘のことを発信したい。仲間が増えたら楽しいし、自分たちで作った仕事が出来たらもっといい。それがより広い地域に波及したらさらにいい。現時点ではこういう感じのシェアハウスだけど、同志といえる人が増えていったらいいなと思う。いろんな人がたむろ荘に来てくれたみたいにこれからは自分もいろんなところに行きたい。

 

*1:生活路線というのは正確にはどういう用語かわからないけど、自分としては自分や同居人のより良い生活を第一に考えて行動するという感じのニュアンスで使っている。自分の生活の範囲内のことを最初にするというのは、大学で活動していた時のコンセプトと同じだし、その流れをたむろ荘も汲んでいると思う。自分が安心してより良く暮らすために行動するし、誰かがその人自身の生活をよくするために活動していたとしたら助け合う。自分の生活を脅かすような他人・制度・組織などにはどんどん抗議するみたいな感じで自分はわりと広義に解釈している。

*2:これはいずれたむろ荘の総意としてサイトに明記する