セクハラにNoと言う時、自分は人間であることを放棄しなければならない。

セクハラになぜはっきりNoと言えないのか。分かっているのになぜ厳しく対応できないのか、それは自分がその瞬間ただの人間だからだと今日はっきり思った。逆に言うと、セクハラにNoと表明しようと思ったら、自分は人間であることを放棄しないと言えない。

「その程度のことをセクハラと思っているんではやっていけないよ」とかいうことも昔言われたことあるけど、そういう認識の人と話す言葉は何もないです。

 

たむろ荘は今大型イベントの真っ最中で今日は自分一人で前橋のセミナーに行っていた。講師としてたむろ荘に関する講演をした。おそらく25人くらいの人が聞きに来てくれていたと思う。

知っている人も知らない人も男女問わずたくさんの人が聞きに来てくれて、良かったな~、話をしに前橋まで来て意味があったな~と思った。講演が終わってから、大学の教授や前橋市役所の方で、空き家活用の活動をしている方と話し込んだりして、良い出会いも多かった。脈略もなく交流するのも楽しいけど、ある程度同じ方向に興味がある人と話すのもまた楽しいんだったと思えて大変有意義な時間だった。

 

(だから会場でセクハラにうっかり出会ってしまったからといって、今日の講演会が悪いものだったとは全く思わない。ただなぜこんな怒りにかられるのか、何故他人をうっかり喜ばせてしまったのか、なぜ自分は嫌なことで笑って場を取り持ってしまったのか、それが悔しい)

 

講義が終わって会場を出るころには数人の初老の男性グループと、最近知り合いになった役場の職員さんと自分だけになっていた。その数人のグループは出入り口の近くで、ちらちらと私(たち)の方を見て何かを話していて、「あー、なにか話があるのかもしれないなー」と思っていた。二人で会場を後にしようと出入り口に近づきながら、自分はそのグループに「今日はありがとうございました」と声をかけて頭を下げた。何か活動に興味があったり、告知がある人は声をかけてくれるだろうなと思ったからだ。

 

そのグループの5~6人のうちの何人かはあいまいにお疲れさまでした、と口にしただけだったけれど、一人の男性が「本田さん、」と自分に声をかけた。

 

「本田さん、ちゃんと食べてる?」と聞かれた。

薄笑いを浮かべて、ちゃんと食事を摂っているかを聞いてきた。なんか嫌だなと思った。初対面で、初めて言葉を交わす相手なのになぜそんなことを聞くのかと思った。

 

はい、食べてますよと答えた。「ホントー?ちゃんと食べてる?」とまた聞かれる。なぜこの人は私にため口でなれなれしく話してくるのだろうと思いながら、はい、ちゃんと食べてます。ともう一度答える。

すると彼は「スライドの写真は顔パンパンだったからさ~、今はスリムだね」といって笑った。

その瞬間自分は、アーやっぱりなと思った。そういうことを言われるだろうなと思ってはいたけど、やっぱりだ、クソ最悪だ、何様なんだと思った。でも、私はその時人間だった。奇襲をかけられたと思った。Noと言って闘えなかった。

まぁ改修作業とかしたら痩せますよ~ハハハ、みたいに場を取り持った。その後彼は満足げに自分のイベント?(おとな博とかいってた)のことをちらっと話していた。

 

家に帰ってきて、だんだん何だったんだあれは、何故あの時笑ってしまったんだ、良い人でいようとしてしまったんだ、と思って最低な気持ちになった。喜ばせてしまった、なおかつ自分を勝手に消費されて、でも自分は物言わず、場を取り持つために無意味な自虐までした。

 

おそらくその時笑って誤魔化すんではなくて、「それってどういう意味ですか?」と言えばよかったんだと思う。

 

でもそういう場所で自分はいつも”人間”で、しかも全然だめな人間だ。セクハラに限らず、自分は何かにパッと抗議したり、反論したり、抵抗できる人ではないんだと思う。いつも苛烈な活動家のようなマインドでいられないのと同じで、いつも闘う人格ではいられない。平穏な土曜日の午前中に、なんだかよくわかんないスペースの講演会をわざわざ聞きに来てくれる人というのは一般的には賛同者なのでは、フォロワーなのではないかと思っていた。

 

けどそれはたぶん違っていて、自分の話を聞きに来る人の中には、1時間の講演の中で私の体型の変化にしか目がいかない人がいて、それを口にして楽しみたい人というのはいて、当たり前にどこでも自分は闘っていかなければいけないんだということを、うっかり忘れていた。常にいつでも消費される、それはどんな場所でも一緒だ。

 

初対面かどうかに関わらず、人間の体型や容姿に勝手に言及して笑うというのは失礼に当たるということを、自分よりはるか年上の人間が全く意識していないということがある。どこまでも私は女であることで損をするし、嫌な思いをさせられる。闘うことをやめさせてくれない。女であることは損だ。女であるせいで私は今までさんざん嫌な思いをしてきたし、嫌な言葉をかけられてきた。たむろ荘に友人男性らが遊びに来てくれて出入りしているのを他人が見て、「セックスばっかりしてないで就職しろ」と言われたこともある。そういう世界観で活動をしてきたし、これからもそれはたぶん変わらない。

 

でも私はどこかに行った時に、あるいは誰かに向って話す時に、自分の女性”性”のみを見られて、そこばかりを前提に会話を進められるのはもううんざりだ。

 

誰からも勝手に自分という存在をないがしろにされないはずだと信じても、誰がいてもいいスペースではハラスメントが起こるのだとしたら、それに誰もが無批判であるのだとしたら、もう行かなければいいだけ。見なければいいだけ。なぁお前だぞ、そこのお前らだ。もう私は君に消費されたくない。こりごりだ、こんなことは。承認は別の人から与えてもらってくれ。認め合ったり、与え合うカルチャーのある場所に私はいたい。

 

見なければいないのと同じ。なかったこと、いなかったことにはならなくても。

 

私に話しかける時に、私の体型を性的に消費してからじゃないと、自分の話をし始められないのか?自分の活動の話をし始められないのか?もしそうなんだとしたら、そんな表現の一切は滅んでしまえ。何の価値もないものだ。誰かに自分のことを伝える時に、ハラスメントに及ばなければならないものが、尊ばれるべきものとは思わない。

 

そう思うのと同時に、しかしなぜ自分はあの時、真顔でNOと言えなかったのか、と闘えなかった自分を情けなく思う自分もいる。だから自分は、どんな性別の人にも子供にも大人にも、仲間にもハラスメントしないようにしたい。常に気を付けて生活することを未来永劫普通にやりたい。もしくは今までしてしまっていたかもしれないことに関して、自覚的でいたい。

 

 

本当はみんな常に闘いたくはないんじゃないかと思うよ。私はずっと闘いたくはない。

どこでも安心して人間でいたい。