あるいはここは冷たい丘

正論で人を殴り続けてはいけない。正しいことで、否定のしようがないことで人を指摘し続けたらそれは暴力になる。

 

出来ない奴に合わせると、出来るやつが割を食う。そんな気持ちでは暮らせない。助け合うこと、自分のできないことは相手がやってくれていて、相手のできないことを自分がやっている。これを忘れないことだ。だって間違いなくそうなんだから。ひとりで何でもできる人間はそもそも共同生活しない。相手に興味を持つこと。

 

他人と住むことは信じられないくらい手間がかかって、家族というコードやシステムから遠ざかって共同生活をすることは、相当スリリング。

 

様々な価値観を共有し終わったと思っていた人から、思いもよらない反応が返ってきたとき、ひどくたじろぐ。裏切りがいままでそんな気配の何もない空間から発生しては消えていく。会話の最大値をみつけようとする努力をみんなが同じようにやろうとはしていないことを知った。出来ないのではなく、やらない人がいること。考えられないのではなく、考えたくない人や考えない人がいること。そういう在り方が確かに存在する。

 

他人の気持ちを本当に理解することはできない。全部分かり合うことなんて不可能だ。そんなことはたいていの人は分かっている。それでも、たとえ人々の異言、天使の異言を語ろうとも、愛がなければ、私たちは騒がしいどら、やかましいシンバル。そこに愛はあるか、祈りはあるか。ひかりが差しえるか。分かり合おうとする最大限の努力、それを自分の免罪符にしない覚悟、言い訳にしないタフさ。

 

前提としての交われなさ、分かり合えなさを理由に、他人を諦めることはできない。

 

してほしいこと、してほしくないこと、言いたいこと、言われたくないこと、うれしいこと、嫌なこと、逐一逐一全部伝えて、卑下されても愛玩されても勝手に絶望されてもコミュニケーションをとろうと試みること、そういう覚悟を引き受けます。自衛のための撤退以外に、対話を諦めないでいたい。