ここには喜びがある

 

1年に1回くらいブログを開いたりしてみると過去のモードが分かっていいのかも。

 

春から夏にかわる間に環境もかなり変わったなと思います。すべて、増える本や捨てたものの積み重ねでしかないって感じがします。そういうことからしか月日を実感できません。初夏に人と別れました。私の人生、細胞一つ一つを変えていった人も、もう出会わない人です。いろいろに一区切りがついたんだなという感想があるな。もう二度と会うことのできない人が、しかし、文章の形をとって燦然と輝いています。

とにかく、全く人と会わない半年でした。心が穏やかになりました。怖い人と会わなくなりました。それで少し寂しくなったり。いやこれで正解っしょと思ったり。自分の不実で人が離れていくような実感も、薄ぼんやりとあります。やりたいことに没頭しました。強いコンテンツにハマって、世界ってこのままでもいいのかも?とか思います。

 

一生懸命自分の身体に向き合ってもみました。やれることはたくさんやりました。ダイエットは、つらいです。楽しかったのは一瞬でした。この苦しみは説明のつかないものだし、誰からも何も言ってほしくないです。何を食べても何を食べなくても安心できない毎日です。鏡を見て心がほころぶことなんて一生ないんだろうと諦めています。すべて自分の責任になるのは、とても楽ですけどつらいことです。5キロ減量しても可愛くなれない現実があります。誰からも愛されないかも~とか思ったり、こういうのってくだらないけど無視できないです。ずっと心のどこかにあります。いつまでも満たされないで乾ききっている。すべては場当たり的なモルヒネでしかないのかもしれません。

 

私は努力をしていてえらいです。いつも自分のできる最大の努力をしようと務めています。うまく出来ないことばっかりだけど、そのくらいで敗北できないじゃないですか、全部、納得いかないから努力して選択したい。顔も身体も環境もぜんぶ。

だからね親しくもない人間が、無遠慮にずけずけ言ってくるイヤな言葉すべてを許していこうっておもいます。他人にしてほしいことをしてあげることでしか、してもらえない。わたしと貴方/貴女は合わせ鏡。だからわたしを割ってもいいんだよ。私もきっと誰かを割ってしまう。

 

なんか嘘っぽい文章だ

セクハラにNoと言う時、自分は人間であることを放棄しなければならない。

セクハラになぜはっきりNoと言えないのか。分かっているのになぜ厳しく対応できないのか、それは自分がその瞬間ただの人間だからだと今日はっきり思った。逆に言うと、セクハラにNoと表明しようと思ったら、自分は人間であることを放棄しないと言えない。

「その程度のことをセクハラと思っているんではやっていけないよ」とかいうことも昔言われたことあるけど、そういう認識の人と話す言葉は何もないです。

 

たむろ荘は今大型イベントの真っ最中で今日は自分一人で前橋のセミナーに行っていた。講師としてたむろ荘に関する講演をした。おそらく25人くらいの人が聞きに来てくれていたと思う。

知っている人も知らない人も男女問わずたくさんの人が聞きに来てくれて、良かったな~、話をしに前橋まで来て意味があったな~と思った。講演が終わってから、大学の教授や前橋市役所の方で、空き家活用の活動をしている方と話し込んだりして、良い出会いも多かった。脈略もなく交流するのも楽しいけど、ある程度同じ方向に興味がある人と話すのもまた楽しいんだったと思えて大変有意義な時間だった。

 

(だから会場でセクハラにうっかり出会ってしまったからといって、今日の講演会が悪いものだったとは全く思わない。ただなぜこんな怒りにかられるのか、何故他人をうっかり喜ばせてしまったのか、なぜ自分は嫌なことで笑って場を取り持ってしまったのか、それが悔しい)

 

講義が終わって会場を出るころには数人の初老の男性グループと、最近知り合いになった役場の職員さんと自分だけになっていた。その数人のグループは出入り口の近くで、ちらちらと私(たち)の方を見て何かを話していて、「あー、なにか話があるのかもしれないなー」と思っていた。二人で会場を後にしようと出入り口に近づきながら、自分はそのグループに「今日はありがとうございました」と声をかけて頭を下げた。何か活動に興味があったり、告知がある人は声をかけてくれるだろうなと思ったからだ。

 

そのグループの5~6人のうちの何人かはあいまいにお疲れさまでした、と口にしただけだったけれど、一人の男性が「本田さん、」と自分に声をかけた。

 

「本田さん、ちゃんと食べてる?」と聞かれた。

薄笑いを浮かべて、ちゃんと食事を摂っているかを聞いてきた。なんか嫌だなと思った。初対面で、初めて言葉を交わす相手なのになぜそんなことを聞くのかと思った。

 

はい、食べてますよと答えた。「ホントー?ちゃんと食べてる?」とまた聞かれる。なぜこの人は私にため口でなれなれしく話してくるのだろうと思いながら、はい、ちゃんと食べてます。ともう一度答える。

すると彼は「スライドの写真は顔パンパンだったからさ~、今はスリムだね」といって笑った。

その瞬間自分は、アーやっぱりなと思った。そういうことを言われるだろうなと思ってはいたけど、やっぱりだ、クソ最悪だ、何様なんだと思った。でも、私はその時人間だった。奇襲をかけられたと思った。Noと言って闘えなかった。

まぁ改修作業とかしたら痩せますよ~ハハハ、みたいに場を取り持った。その後彼は満足げに自分のイベント?(おとな博とかいってた)のことをちらっと話していた。

 

家に帰ってきて、だんだん何だったんだあれは、何故あの時笑ってしまったんだ、良い人でいようとしてしまったんだ、と思って最低な気持ちになった。喜ばせてしまった、なおかつ自分を勝手に消費されて、でも自分は物言わず、場を取り持つために無意味な自虐までした。

 

おそらくその時笑って誤魔化すんではなくて、「それってどういう意味ですか?」と言えばよかったんだと思う。

 

でもそういう場所で自分はいつも”人間”で、しかも全然だめな人間だ。セクハラに限らず、自分は何かにパッと抗議したり、反論したり、抵抗できる人ではないんだと思う。いつも苛烈な活動家のようなマインドでいられないのと同じで、いつも闘う人格ではいられない。平穏な土曜日の午前中に、なんだかよくわかんないスペースの講演会をわざわざ聞きに来てくれる人というのは一般的には賛同者なのでは、フォロワーなのではないかと思っていた。

 

けどそれはたぶん違っていて、自分の話を聞きに来る人の中には、1時間の講演の中で私の体型の変化にしか目がいかない人がいて、それを口にして楽しみたい人というのはいて、当たり前にどこでも自分は闘っていかなければいけないんだということを、うっかり忘れていた。常にいつでも消費される、それはどんな場所でも一緒だ。

 

初対面かどうかに関わらず、人間の体型や容姿に勝手に言及して笑うというのは失礼に当たるということを、自分よりはるか年上の人間が全く意識していないということがある。どこまでも私は女であることで損をするし、嫌な思いをさせられる。闘うことをやめさせてくれない。女であることは損だ。女であるせいで私は今までさんざん嫌な思いをしてきたし、嫌な言葉をかけられてきた。たむろ荘に友人男性らが遊びに来てくれて出入りしているのを他人が見て、「セックスばっかりしてないで就職しろ」と言われたこともある。そういう世界観で活動をしてきたし、これからもそれはたぶん変わらない。

 

でも私はどこかに行った時に、あるいは誰かに向って話す時に、自分の女性”性”のみを見られて、そこばかりを前提に会話を進められるのはもううんざりだ。

 

誰からも勝手に自分という存在をないがしろにされないはずだと信じても、誰がいてもいいスペースではハラスメントが起こるのだとしたら、それに誰もが無批判であるのだとしたら、もう行かなければいいだけ。見なければいいだけ。なぁお前だぞ、そこのお前らだ。もう私は君に消費されたくない。こりごりだ、こんなことは。承認は別の人から与えてもらってくれ。認め合ったり、与え合うカルチャーのある場所に私はいたい。

 

見なければいないのと同じ。なかったこと、いなかったことにはならなくても。

 

私に話しかける時に、私の体型を性的に消費してからじゃないと、自分の話をし始められないのか?自分の活動の話をし始められないのか?もしそうなんだとしたら、そんな表現の一切は滅んでしまえ。何の価値もないものだ。誰かに自分のことを伝える時に、ハラスメントに及ばなければならないものが、尊ばれるべきものとは思わない。

 

そう思うのと同時に、しかしなぜ自分はあの時、真顔でNOと言えなかったのか、と闘えなかった自分を情けなく思う自分もいる。だから自分は、どんな性別の人にも子供にも大人にも、仲間にもハラスメントしないようにしたい。常に気を付けて生活することを未来永劫普通にやりたい。もしくは今までしてしまっていたかもしれないことに関して、自覚的でいたい。

 

 

本当はみんな常に闘いたくはないんじゃないかと思うよ。私はずっと闘いたくはない。

どこでも安心して人間でいたい。

 

あるいはここは冷たい丘

正論で人を殴り続けてはいけない。正しいことで、否定のしようがないことで人を指摘し続けたらそれは暴力になる。

 

出来ない奴に合わせると、出来るやつが割を食う。そんな気持ちでは暮らせない。助け合うこと、自分のできないことは相手がやってくれていて、相手のできないことを自分がやっている。これを忘れないことだ。だって間違いなくそうなんだから。ひとりで何でもできる人間はそもそも共同生活しない。相手に興味を持つこと。

 

他人と住むことは信じられないくらい手間がかかって、家族というコードやシステムから遠ざかって共同生活をすることは、相当スリリング。

 

様々な価値観を共有し終わったと思っていた人から、思いもよらない反応が返ってきたとき、ひどくたじろぐ。裏切りがいままでそんな気配の何もない空間から発生しては消えていく。会話の最大値をみつけようとする努力をみんなが同じようにやろうとはしていないことを知った。出来ないのではなく、やらない人がいること。考えられないのではなく、考えたくない人や考えない人がいること。そういう在り方が確かに存在する。

 

他人の気持ちを本当に理解することはできない。全部分かり合うことなんて不可能だ。そんなことはたいていの人は分かっている。それでも、たとえ人々の異言、天使の異言を語ろうとも、愛がなければ、私たちは騒がしいどら、やかましいシンバル。そこに愛はあるか、祈りはあるか。ひかりが差しえるか。分かり合おうとする最大限の努力、それを自分の免罪符にしない覚悟、言い訳にしないタフさ。

 

前提としての交われなさ、分かり合えなさを理由に、他人を諦めることはできない。

 

してほしいこと、してほしくないこと、言いたいこと、言われたくないこと、うれしいこと、嫌なこと、逐一逐一全部伝えて、卑下されても愛玩されても勝手に絶望されてもコミュニケーションをとろうと試みること、そういう覚悟を引き受けます。自衛のための撤退以外に、対話を諦めないでいたい。

たむろ荘とは現時点で何であるかについて

 

たむろ荘を買い取ってから4月13日でちょうど2年になります。そして住み始めておおよそ1年でもある。たむろ荘とは何であるかというのは、個々人で解釈が異なると思うし、運営者で共同代表でもある秋山と自分の間にも多少の違いがあると思う。居住者の自分と、運営者の自分ではまた考えも微妙に違うし、今いる居住者との間にも微妙に解釈の違いがあるのかもしれない。

 

ただここらで(本当はもっと早く固めていれば今までの苦しみはなかったわけだけど)たむろ荘は何であるのかどういう性格の場所なのか、少なくとも「何ではないのか」について自分の考えをまとめておく必要があるなと思う。理由として、住み始めてここ一年で来訪・滞在した人の中には、たむろ荘が避けたい振る舞いを求めてたむろ荘にやってくる人というのが少なからず存在していて、そういった誤解に対する対応をめぐって運営者・居住者がどんどん疲弊していく現実があるからだ。

 

この記事はたむろ荘を1年運営して、来る人みんなと切々と会話して得た知見をもとに「たむろ荘とは現時点で何であるのか、たむろ荘の理念/綱領の軸になりうるのは何か」ということについてのたむろ荘の一運営者としての見解です。たむろ荘としての総意ではなく、また現時点では何かという考えであって、今後どうなっていくかもまた別問題と考えてほしいです。

 

 

 

こういう「たむろ荘とは何であるか」という記事を書く前提として、自分はたむろ荘を出来れば長く続けていきたいと思うし、こういう場を維持することだけにでも価値はあると考えているのが理由としてある。だから自分を含めた運営者・居住者がある程度たむろ荘の理念を共有していた方がいいなと思う。これはたぶん理念の下書きみたいなもので、下書きを各々運営者が持ち寄る形で今後理念が出来ると思う。

けどこの記事はもしかしたら理念の下書きというよりむしろ倫理綱領みたいな性格が強いかもしれない。そしてかなり一般論に寄る形でしか表記できないかもしれない。抽象的で具体性に欠けるかもしれない。

 

そうなってしまう理由として、今のたむろ荘はもともとの目的であった「一人暮らしからの脱却と、集団での利便的生活」というのをわりと主要な理念に置いている(ように感じる)ということがある。実際かなり生活路線*1を強めていると思う。そういう現状の中で極端に言えば、「同居人が突然体調不良を訴えて苦しんでいます、あなたはどうしますか?」「同居人(あるいは来客)が、差別的で横暴な振る舞いを来客(あるいは同居人)に対してしています、あなたはどうしますか?」といった問いに、同じ答えを持つ(あるいは持ちうる)人じゃなければ暮らしていけないという結論に自分自身は達している。

 「最大限の努力をして助けます」「差別的で横暴な振る舞いは理由はどうあれ見過ごせません」と考える人としか暮らせないというのが自分の暮らしの中での実感としてある。

 

生活路線を強めればおのずと排除しなければならないタイプの人間がいるというのはここ1年で私が得た知見の一つでもある。他人のことをどうでもいいと思っては暮らせないし、無関心ではいられない。で、それは逆に共同生活をしている以上私のことをどうでもいいとは思ってほしくないし、無関心でいられたくないということでもある。思いやりたいし、思いやられたいと感じる。共同生活というのはそういうモノだとすら思う。

 

 

「排除するのはコミュニケーション淘汰なんじゃないのか」「相手にコミットしていないんじゃないのか」という意見もあると思う。たしかに活動するうえでたむろ荘は自分の名義だけど、自分だけのものではない。いろんな人の支援があって動き出したものだから、正確には誰のものでもない。排除するとか強制的に退去を要求する資格なんてものは自分には全くないのかもしれない。けど、それでも自分は誰に対しても最初は誠実に対応しようと心がけてきたし、コミュニケーションに落ち度はあったかもしれないけど、その時その時自分のあるマックスの体力と気力でできうる限りの対応をしてきた。代表としての自分と居住者としての自分のギャップに苦しい思いもあった。「自分が住みづらいからって、相手を安易に避けようとしていないか?権力を持ったつもりになって思いあがっているのではないか?独裁的で管理的なところから逃げてしまえとおもってたむろ荘を作ったのに、ここで自分は独裁を敷いているんじゃないのか?」と何度も思った。そういうことを誰とも共有できない日々が続いて精神的に参ったりしてた

 

それでもやはり、自分しか気になっていなかったら自分がやるしかないし、居住者としてのしんどい自分を運営者の自分が無視することは、それこそ生活路線からどんどん外れていくことになる。吐きそうになったり、心拍数あがったり、手が震えたり、声が震えてみっともなかったりしてもコミュニケーションを諦めないことが必要なのではないかと思う。他人と一緒に生活を良くしようとするのは並大抵のことではなくて、ものすごく手間がかかって、信じられないほどスリリングだ。でも自分の生活は自分で防衛しなければならない。自分が不快だ、不当だと思ったことは自分で伝えなければならない。伝えられたら真摯に受け止めて改善を試みなければならない。これは自分がたむろ荘で良く暮らすために最も心掛けていることだし、これは居住者も運営者も、もっというなら来訪者も一緒になって目指してほしい目標でもあると思う。「自分の選択と責任で生きていく」これは初期から変わらない理念だと思っている。たむろ荘の理念の軸たり得るのではないかと思う。

 

 

とにかく他人を安易に消費しないこと。女としての振る舞いのみを強制されるのはもうこりごりだし、親しい人間が性別だけを重要視されて消費されていることに対してもバチバチの嫌悪感がある。もう誰にも勝手に消費されたくないし、誰のことも消費したくない。たむろ荘をただの安宿として使ってもらっても別に構わない。けれども安く女性と話せるからといった理由だけで来る人は歓迎できない。たむろ荘は来訪した人に対してなるべく誠実に対応したいと思っているし、こちらに興味を持ってくれたことにたいしての興味もある。けどそれは来訪者である人も、居住者・運営者に対してそうであってほしい。

 

たむろ荘は自分たちで作った自分たちの場所だから、人任せにせず、自分たちで良く暮らし活動するために何が必要か考えるべきだと思っている。それは運営者・居住者・来訪者、誰でも同じであってほしい。運営者だけが割を食ったり、居住者だけが割を食ったり、来訪者だけが割を食ったりすることのないように個人個人がこれから出来てくるであろう理念にのっとった行動をしていけたらいいと思う。

たむろ荘で楽天的に暮らしていく様子を発信していきたいと思っているし、すごく平たく言うとそれが革命なのではないかと私個人は考えているけど、楽天的に暮らそうとするのには思いやりと自主性と知恵が必要である。とにかく人任せにしない。人任せにするということは、他人にどんどん人生を決められることと同じだぞ。それは私たちがもうこんなものはうんざりだと言って放棄した就職活動や、メイク講座と何ら変わらない。能動的か受動的かの違いしかない。人任せにするということは、勝手に自分たちの場所に政治家が来て勝手に政治始めることを容認するようなものだ。人がなにか言うまで自分は黙っているということは、無関心を露呈し続けているのと同じだぞ。そんなのは思いやりでも何でもない。一人じゃやっていけないからみんなで住んでいるたむろ荘でそんなことは絶対にごめんだと私は思う。

 

 

 

 

 

たむろ荘は誰でも・何にでも使うことを許容は出来ないし、誰でも住めるわけではない。たむろ荘が初期に掲げていた「誰のものでもないし誰のものでもある何にでも使える家」という理念にはガタが来ていると思う。今言えるのは、誰のものでもないし誰のものでもあるというのは同時には存在しえないということで、住まれたら困る人、使われたら困る用途*2が明確にある。

 

たむろ荘がもし賃貸だったら、もっと性格は違っていたと思う。でもたむろ荘はもう持ち家で、よほどのことがない限り無くなることはない。どんどん人に住んでもらってバンバン家賃貰わないと運営できなくなるというタイプのシェアハウスではない。それがたむろ荘の「先に住んでいた人のことを優先する」という思想を強めていると思うし、その路線でやっていける理由でもあると思う。

 

 たむろ荘は今後ゲストハウスかもしれないし、オープンスペースかもしれない。貸しスペースかもしれない。カフェかもしれない、インフォショップかもしれない、古着屋かもしれない、古本屋かもしれない。何になっていくかはまだ全く分からない。

けどここは女と話せるだけの店ではないし、誰か一人のための駆け込み寺ではない。ただ飯にありつける場所でもない、カウンセリング会場でもない、充電スペースでもない。たむろ荘が善意で行った事だけが独り歩きして、さも全員に対して善意MAXでふるまっているかのように思っている人もいるかもしれない。けどたむろ荘はボランティアでやっているわけではない。血の通った人間が運営しているわけなので、疲弊もする。腹が立ったりもする。

 

 

 

たむろ荘とは現時点では(ただの)シェアハウスであり、今後ともおそらく住みやすいシェアハウスを目指していくのではないかと予想している。そして住みやすいというのは、第一に設備のことを指すのではなく、皆が同じ目的のために自らが自治に参加することで自分たちの場所を維持するということを指すのではないかと思う。

今後はもっとたむろ荘のことを発信したい。仲間が増えたら楽しいし、自分たちで作った仕事が出来たらもっといい。それがより広い地域に波及したらさらにいい。現時点ではこういう感じのシェアハウスだけど、同志といえる人が増えていったらいいなと思う。いろんな人がたむろ荘に来てくれたみたいにこれからは自分もいろんなところに行きたい。

 

*1:生活路線というのは正確にはどういう用語かわからないけど、自分としては自分や同居人のより良い生活を第一に考えて行動するという感じのニュアンスで使っている。自分の生活の範囲内のことを最初にするというのは、大学で活動していた時のコンセプトと同じだし、その流れをたむろ荘も汲んでいると思う。自分が安心してより良く暮らすために行動するし、誰かがその人自身の生活をよくするために活動していたとしたら助け合う。自分の生活を脅かすような他人・制度・組織などにはどんどん抗議するみたいな感じで自分はわりと広義に解釈している。

*2:これはいずれたむろ荘の総意としてサイトに明記する

地上波初放送されてもなお「君の名は。」を見あぐねている新海誠ファンの諸氏へ

1月3日に「君の名は。」が地上波初放送された。

 

そんな風にお手軽に観れる機会さえもスルーして「君の名は。」を見あぐねている新海誠ファンがいると思う。もしくは別に新海誠ファンじゃないけどなんとなくいけ好かないな、とか、あんまり好きじゃなさそうだなと思って見ていない人もいると思う。多分私も公開されたときに思い切って観に行っていなかったら、「君の名は。」はスルーしてたと思う。でも公開時に観に行って、はぇーこれはよく出来てる…めっちゃ好きだ…と思ったし、「新海誠追いかけて来て良かった」と心底思ったので、見あぐねている新海ファンは特に見てほしいなって感じます。

 

公開されてから「君の名は。」が社会現象レベルではやり始めたとき、正直観に行こうかめちゃくちゃ迷った。それはたぶん人生に刺さるような映画に「秒速5センチメートル」や「ほしのこえ」が挙げられるからで、12~3歳の時の新海作品との出会いがあまりにも強烈すぎて、同じものを求める気持ちがあったからだと思う。

 

予告だけ見ると、「君の名は。」っていかにも商業主義的に映るし、「『方言をしゃべる可愛い女の子』とかいう安直で売れ線狙いのキャラ出してんなぁ」みたいにひねくれて捉えてた。それに「細々と自分の思い出のなかだけで楽しみたい」みたいなものが新海誠だったのもある。RADWIMPSもそうだったから、よけいに見に行けなかった。周りからの持ち上げられ方も好きじゃなくて、気後れしてた。

 

でも実際は「君の名は。」を観て号泣だった。初見ではホントにちょっと引くくらい泣いてた。

 

君の名は。」は、前半はいままでになく楽しくて、瀧と三葉の応酬が良かった。友達でもなく、かといって恋仲でもなくて、お互いに好きかも分からないままで、なんなんだお前!ってぶつくさ思いつつ、どんどん雑になっていく感じが楽しかった。

新海作品で、初めて楽しくて笑いながら観たとおもう。「君の名は。」の導入はホントに楽しかった。楽しく見れるっていうのが今までとちがうなぁって思った。新海作品を見るときって、身構えて眉根寄せて観てた。自分の忘れられたらどんなに…っていう記憶とかを引っ張り出してきたりして、重ねてなぞった。でも「君の名は。」はそういうんじゃなくて、素直に楽しくて笑えて、そこが良かった。

 

でもそういうお互いの入れ替わりの日常のなかでも、入れ替わっているそのせいですれ違う人間関係というものがあり、時々本当に身が切られるように切実な痛みがあった。うわ、この人そういうところまじさぼらないっすよね。絶対刺しにに来るよね。ってくらい完璧なえぐられ方で、そういうところは変わらず新海作品らしくて良いっておもった。

たとえばデートの最中に先輩に「瀧君なんだか今日は別人みたい…」って言われるところとか最高にしんどい。別人なのは三葉が入った瀧なのに、今日会っているのは本物の瀧なのに、本当の自分の時は好きな人に選ばれない。それでも「誰かと出会って変わっていった、一生懸命になっていったタキが好きだった」と、あとになって瀧のいないところで他人にポロっと零す先輩の気持ちとかも、考えると泣けた。

 

入れ替わることでいろんな人間関係が避けようもなく変化していってしまうし、それらは全部自分では止められない。いろいろなものが加速してしまうし、自分も他人の日常を加速させてしまう。良いとか悪いとかじゃなく、否が応でもそうなっていく。そういうままならなさが染みる。そういうことって私たちの日常でも起こりまくるのに、素通りしがちで、でも君の名はではちゃんと書かれているのめちゃくちゃいいなって思う。

 

入れ替わらなくなってから、二人が二人を切望している姿が静かで、そんなことあるよなと思ったりもする。人生って思い通りにならないし、だから大事にしたいって思うんすねって、素直にそう感じれた。

 

これで二人仲良く犯罪者やな!と威勢よく言った友人にも、声を震わせながら協力した親友にも、それぞれの人生に深刻な悩み事があって、超えられないしがらみがあって、でも死んじゃいたくないよ!って思いで、デカいことを成していくところが良かった。そういうスカッとしたシーンがあって、そこはいままでとちょっと違うなと思った。

 

君の名は。」を観て、強く思ったのは、人と人との出会いはものすごい勢いでそこらじゅうで起こりまくっていて、つかみ損ねたり忘れちゃったりするものだってこと。死なないで!って思ったり、行かないで!って思ったり、全部夢なのかもしれないと思い込もうとしたり、忘れたいことはなかなか忘れられないし、覚えていたいことは掻き消えるように記憶のどこかに遠のいてしまう。髪の毛の重さとか、肺に吸い込んだ空気の冴え冴えしさとか、ずんずん忘れてしまう。喜怒哀楽で区分けできない感情はもてあましながら、でもそんなしちまどろっこしいことは特に、どんどん消えて行ってしまう。

 

忘れちゃう、忘れちゃう、消えちゃうよ…って夕焼けを見ながら、お互いの手に名前を握らせることも出来ないし、覚えているのは強く求めていたということだけで、残滓を大切に大切にしながら、ずっとだれかなにかを探しているというのはつらいことだ。

 

再会して、二人の頭になにか鐘のような、ピースのハマるような音が鳴り響いても、始まる予感と音がしても、瀧は三葉との関係を思い出さないし、三葉も瀧との関係を思い出さない所がすごく良いなって思う。そこでダメ押し的に泣ける。もう一回初めからになるんだなって、そういうのって希望でもあるし死ぬほど絶望的でもあって最高っておもう。「君の名は。」ってたぶん新海誠作品の中では一番ポップだし、エンタメ性強いし、登場人物もきらきらで笑えるところも多いんだけど、めちゃくちゃ突き放してもいて「希望とか前進とか恋とか運命とか、そんな明るい言葉だけでは語れないでしょ」みたいな感じがするようにおもう。

 

忘れちゃったことは思い出せないし、人と人はこんなにもすれ違ってしまうし、無数の分岐点があって、それらが全て不可逆で、それでも過去を報いるためには今からの、これからのことを大事にしていくしかないねって思えて良い。いろんなことが変化して、もしかしたらもう駄目になっちゃってる関係もあって、でもそれでもやり直そうとすることが出来るのではないかと思えて、しんどいけど最高。もうレンタルは旧作扱いのはず。見てくれ…

 

風邪のひきはじめの甘ったれ

春に気持ちが滅入るのは、車を買ったのにどこにも行けない気分に似ています。

どこに行くにしたって、知っている匂いが追いかけてきて、過去の中にしかきらきらしたものはないじゃないかよと腹立たしい。

例えば5月、網戸越しに嗅いだ隣のお家のごはんの匂いとか、古本の綴じ目の甘くて饐えた匂いだとか、レンタカーのよそよそしい空気だとか。二つ並んでいるからってかわいいわけじゃない。カップルに見える人間の人の、本当の何割がカップルなんでしょうか?優しくし合うことを許されないので、あなたに優しくできません。敬意と軽蔑と強烈な憧れとがないまぜになる関係ばかりを抱え込みすぎて、おあー!脳ミソショートすんじゃねえか?期待している事柄の反対を口にして、相手を辟易させてしまうの、本当に悪癖です。安心した先から不安にならないとだめで、好ましいから少しずつ齟齬が生まれてしまって、ああああ!絶対に迷子になれない迷路の中で何年も駄々を捏ねている!

 

昔のことばかりがいつでも好ましくて、しくしくした気分になりがちです。

私はあまりいい人ではないのだなと気が付いていて、そんなことに気が付いてばかりで、鏡になるのは他人で、映るのは赤い金魚みたいにひらひらした欲望だけです。

キャラに徹することですよと、いつかのだれかの言葉がリフレインしますが、まぁこんなところはオフビートなのでいいやとつらつら書いてしまうわけです。いつもは弱いところが強くなって、強いところが弱くなります。言葉も文字も脳ミソの中も真似してしまって、でもそんなのは3歳児のすることで。思い出して傷つくのも、思い出してキレるのも、やめたいって思うんですが、どうにもうまくいかない。

 

人と一緒に生活している時の自分が一番いいです。誰かと生活しているときはずっといい自分でいられるような気がします。無遠慮に傷つけたり、自分ばっかりが出しゃばったり、言われたくないよなあってモノを平気で言ってしまったり、そんな初歩的な「やっちゃだめ」をあたかも狙いすましたように踏んでしまうけど、そうやってしか人との関係を学べません。傷ついて分かるし、傷つけて分かることばっかりで、そういうのがリアルだなって思います。

嫌いだなと思うところをこれでもかと知ってもなお、知り尽くせないのが人ですし、そういうところも含めて好ましければ愛と呼んで差支えないと思うんですが、まぁそんなのは計れません。

 

人らしい気持ち

 

先日のたむろ荘のテレビ放送を見て、

「大学側はこのことを知っているのか、バイトをかけもちしているとあったが学生の本分は学業じゃないのか、稼いだ金は学費に使え!俺は場所も知っているから直接言いに行くからな」

と男性から高圧的な口調で大学側に電話があったらしく、事務局が「心配」して私たちを呼び出して伝えてくれたんですが、もうホント!結局誰も彼も中途半端だなって感じます。

 


大学は本当に心配:興味:保身が1:1:8という印象で、学生を管理したいのと、でも大学は無関係だと言いたいのとがないまぜで、けどそれって学府で管理教育しているだけで、そんなのバカバカしくて付き合ってらんないよって思う。

お役所的な精神で、私たちは女子高生みたく扱われてて、舐められてるんだ。


精神的にも肉体的にも心配だ、と言われても、具体的に状況が好転するわけでもなく、始めたことはもう始めたことで、私たちどんどん加速していくしかないんです。

 

 

将来的に発生するかもしれない心配事に過剰に反応することで精神を疲弊させるのって無意味だと思います。「いつか自分は死んじゃうよ!」ってことを考えまくってたら生きるのバカバカしくてやってらんねぇ!やめやめ!ってなっちゃうのと一緒で、もちろん心配しなきゃいけないこともあるけどそればっかり心配して今やるべきことが出来なくなっちゃったらホント何のために生きてるんだって思っちゃう。

 

やりたいからやっていて、人とああしたいこうしたいって話すしかない。

固定資産税がどうの土地を買うのは親御さんは知ってるのかなど、最終的に聞かれるのはそんなことばっかりで、あんたら知りたいこと普通に聞いてるだけじゃねえか。

 


「あなたたちのこと心配してる。それに関して何度も電話してる。若い女性だけでやっていることだから不安だ。メディアに出るのは裏表があることを理解してほしい。税金や近所とのトラブルなどが起こったらどうするのか、気になるところが多い」

みたいなことも同時に言われるわけなんだけど、もうそんなこと全部承知してやってるわけ。不特定多数を関わっていくことやら税金やらメディアの使い方やら、当事者である私たちのほうが考えまくってるし不安になったりしている。人も殴り込んでくるし、女である、女子大生であることでどうしたって人の目にバイアスがかかるし、匿名の誹謗中傷もバシバシくるし、そんなのもうどうしようもないよ

 


大学は無関係としながらも、電話に人にもし私たちが殺されでもしたら、それを伝えなかった大学側にも責任がある(ようにとられる)ので、それは困るから私たちに伝える。そいでちゃっかり聞きたいこと聞いて説教もしちゃうみたいなさ、そんな中途半端なところが無性に腹立ちます。

 

でもほんとに心配してるんかなっておもちゃったりもしてさ、善意もどきみたいなのが、一番扱いにくくて、鬱陶しくて、罪悪感なんかも感じちゃったりして、嫌いです。